観光
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フランス、スペイン、イタリア、トルコやギリシャなどの観光大国に比べられると観光客数は少ないが、2024年の2千万人を超える観光客と、長年にわたるその増加傾向を考慮に入れると、クロアチアは間違いなく地中海地域で最も訪れる客が多い国の一つである。これを裏付けるものとして、過去10年間に多くの現象が記録されている。
例えば、世界的に有名な雑誌や他のメディアでクロアチアが「発見」され、その自然や文化的な名所が広く称賛されていること、出発国数の増加に伴う観光客の増加、クロアチアのGDPに占める観光関連の大きな割合(約12%)、保護されている有形・無形の文化財の増加、観光と関連のインフラ投資の増加、ますます多様化されている観光資源などが挙げられる。



観光業は間違いなく最も収益性の高い業務であり、それは特に夏の沿岸地域で顕著になる。そこでは、すべての経済活動を(観光の)「シーズン内」と「シーズン外」に分けることが一般である。夏の観光シーズンは主に6月上旬から9月末まで続き、この観光客にとって最も魅力的な季節は地域開発に関する主要な原動力となっている。2024年の総宿泊数(9,370 万泊)のうち、91%は外国人によるものであった。外国人観光客の宿泊数の最多記録は、インフラの面で観光が最も発達したイストリア地方で達成されている。観光業は他の沿岸地域、つまりクヴァルネル地方とダルマチア地方でも発展しているが、内陸部では限定的である。宿泊施設の収容能力はその配分を反映し、主にアドリア海沿岸に沿って分布している。宿泊数が最も多いのは部屋貸し、アパルトマンと別荘(約50%)で、次いでホテルとキャンプである。



歴史的概要
クロアチアにおける組織化された観光の伝統は約150年前に遡るが、19世紀初頭には(巡礼や治療のための)観光と同様の旅行形態も現れたため、その需要を満たすために最初の旅館、宿屋、ホテル、スパなどが建設された(ダルヴァル温泉、ストゥビツァ温泉、ヴァラジュディン温泉)。
19世紀後半から第一次世界大戦までの期間に目立つのは、本格的な観光産業の基盤的な要件として、道路や鉄道の建設とアドリア海への蒸気船航路の導入が行われたことである。当時は、オパティヤの1844年のVilla Angiolina(ヴィラ・アンジョリーナ)と1884年のKvarner(クヴァルネル)から始まり、ザグレブ、サモボル、ザダル、ツリクヴェニツァとドゥブロヴニクでも最初のホテルが開設され、(ポレッチやプーラについてはさらに早い1845年にも)最初の観光ガイドブックが書かれ、1892年以降は最初のザグレブからのヴェレビット山脈やアドリア海沿岸への研究旅行が始まり、(特にクヴァルネル地域の) 沿岸沿いの町が保養観光の中心地となった。そこではその時に最初の観光協会も設立された(1866年にはクルク島で、1868年にはフヴァル島で)。
世界大戦の戦間期には、(1930年頃)百万人程の年間平均観光客数のおかげでクロアチアにおける観光が繫栄期を迎えた。観光税の納付義務の導入、両替所の開設、観光レビューの発行、そして国内外の航空路線網が構築された。
大衆現象としての観光は、約60年前から語ることができる。第二次世界大戦後、まず戦争で破壊された観光施設が修復・国有化され、同時に国立公園や自然公園が設立され、演劇、映画と音楽のフェスティバル(ドゥブロヴニク・サマー・フェスティバル、スプリト・サマー・フェスティバル、プーラ映画祭など)が開催され始めた。1960年代の経済発展の期間、観光施設、ホテル、マリーナ、キャンプ場、そして観光村の建設が始まり、それは主にアドリア海沿岸であったが、クロアチアの内陸部にもみられた(クロアチアのザゴリェ地方とスラヴォニアにある温泉、リカとゴルスキ・コタルの国立公園の地域)。観光にとって重要な年は1979年であり、この年にクロアチアの3つの地域(スプリトのディオクレティアヌス宮殿、ドゥブロヴニク旧市街、プリトヴィツェ湖国立公園)が初めてユネスコの世界遺産リストに登録された。
1990年代の初め、観光会社の変革と民営化により、所有構造が変化した。クロアチア紛争の間、戦争が及ぼす危険と沿岸地域との交通網の遮断により、沿岸地域の観光業はほぼ消滅し、観光施設にはクロアチア各地からの多くの避難民や隣国のボスニア・ヘルツェゴビナからの難民が収容された。1995年以降、とりわけ2000年以降、クロアチアの観光地は総じて外国人観光客数の増加を記録し、観光が活気づけられ、クロアチア自体が世界の観光需要の頂点に位置した。
観光産業の変遷と観光客
過去30年間、観光産業にはかなり異なる3つの段階があった。1980年代後半には、観光客の来訪者数は着実に増加し続け、1000万人を超えた。その後、祖国戦争の時代に、観光客の来訪者数は当然のごとく急落した(1991年と1992年には、250万人以下の観光客が記録された)。来訪者数は戦後再び増加しており、2000年以降観光客の来訪者数は倍増した(2019年には、2000万人程度の観光客来訪者が記録された)。これは、新型コロナウイルスのパンデミックに見舞われ、観光旅行は顕著に減少した2020年と2021年を除く(700万人)。2024年には2000万人以上の観光客と9400万泊の宿泊数で、クロアチアは再び世界の重要な観光地としての地位を確保した。
1980年から現在まで、外国人観光客の割合は国内観光客よりかなり大きく、ほとんどの外国人観光客はドイツ、スロベニア、オーストリア、イタリア、チェコとスロバキアからのものである。過去10年間でみるとポーランド、オランダ、イギリス、ハンガリー、フランス、そしてヨーロッパ以外の国からの観光客数も増加した。
過去10年間にクロアチアへの興味を高めることに大きく影響を与えた集中的な広告活動に加え、低コスト航空ルートの就航や、より購買力の低い旅行者向けの安い宿泊施設の提供の多様化も、観光客層の拡大による多様化した出身国別の観光客構造の形成に寄与した。一方、ドゥブロヴニクを中心とした特定の目的地への豪華客船によるクルーズ旅行の増加や、マリーナの開設と収容能力の増強に伴い、クロアチアを毎年訪れる購買力の高い観光客の人数も増加している。予約方法に関しては、伝統的に個人手配がパッケージツアーの割合を上回っている。観光客の平均滞在日数は5日で、夏季の滞在は長く、その他の季節は比較的短い。