芸術

今日、クロアチアの地域では、先史時代の重要な痕跡(クラピナのネアンデルタール人跡、紀元前3千年のヴチェドル文化遺跡)、埋蔵地(ヴィス島、フヴァル島、オシエク、ヴィンコヴツィ、シサク)と古代ギリシア・ローマ文明の記念碑(1–2世紀のプーラのアレーナとセルゲイの門、4世紀のスプリトのディオクレティアヌス宮殿、2–7世紀のソリンのサロナ遺跡、6世紀のポレッチのエウフラシウス聖堂)が保存され、それに関わった地域の人々の創造性がクロアチアの建築的、芸術的遺産を世界と同等の立場に位置づけた。

プレロマネスク期(8世紀後半–10世紀末)

古典期後半の影響が残る中、西洋ヨーロッパとビザンチン文化圏の影響を受け、多様な平面を持つ小さなプレロマネスク教会が現れ始めた。最も普及しているタイプは、中心的なタイプでアーチ形の屋根か小さなドームの構造で、後に縦長の形状のチャペルがあり、いくつかの大きな教会も建てられた(クニン、ビオグラード・ナ・モルとソリン)。それらはクロアチアの支配者や他の高位高官と結びついていた。石の礼拝用家具に刻まれた装飾としては、キリスト教のシンボルを持つ織り合わされたリボン模様装飾の豊富なモチーフが9–11世紀の間に目立つようになり、クロアチアの支配者の名が多くの祭壇の間仕切りに刻まれている(ヴィシェスラヴ、トゥルプミル、ブラニミル、ムティミル、ドゥルジスラヴ)。墓地で発見された、最初のカロリング朝、あるいはビザンチンを起源とする武器やジュエリーには次第に地元の職人たちが自ら刻印するようになった。

ニンの聖十字架教会、十字の平面とドームを持ち、世界最小の大聖堂とみなされている。
ザダルの聖ドナト教会と、後方の聖ストシヤ大聖堂の鐘楼。カロリング朝とビザンチン様式の影響が融合している。古代のフォーラムに建てられ、プレロマネスクの丸屋根がある円形の建物としてはヨーロッパでアーヘンに次ぎ二番目に高い(27 m)。
ツェティナの泉にある聖救世主教会は三つの後陣を持つ単廊式のカロリング朝建築で西側に西構えを持つ。ジュパンのガスティカの命によって建設された。
ザダルの聖母マリア教会の鐘楼、成熟したロマネスク様式の初期の建築でクロアチア・ハンガリー王コロマンの命により1105年に建てられた。
ザダルの聖ネディリツァ教会の保存されているプルテウスの二つのうちの一つで、聖書の光景の循環を描写している。
イストリアのスヴェティ・ロヴレッチュにある聖マルティン教会。三廊式バジリカで深い聖歌隊席と浅い壁龕がある。

ロマネスク様式(11世紀–13世紀半ば)

ロマネスク様式の地域的な多様性は特定地域の異なる発展段階として表現されてきた(ダルマチアやイストリア、そして時には北部にも城壁と要塞が修復・建設され、教会、町のロッジアや大邸宅が盛んに建てられている)。また、外部からの影響(ロンバルディア、プーリア、ヴェネチア、東ローマ帝国)や、地域の古典期やプレロマネスクの遺産の影響も多分にあった。11世紀後半からの建築様式は後陣を伴った三廊式ロマネスクバジリカが登場する。間仕切りはほぼすべての初期キリスト大聖堂(クルク、ラブ、ザダル、ドゥブロヴニク)と修道院教会(ザダルの聖クルシェヴァン、1175年)で見られる。鐘楼はロマネスク建築の様式を表した最も偉大な要素の一つである。初期ロマネスクの彫刻は11世紀に一度廃れた人物像を再び取り入れた(スプリトの洗礼堂のクロアチアの支配者の像、ザダルの聖ネディリツァ教会のプルテウス)。13世紀初頭からスプリトの大聖堂のアンドリヤ・ブヴィナによる木製ドアや、トロギール大聖堂の堂々としたラドヴァンの玄関のような力強い造形が登場する。スプリトの大聖堂(13世紀)には世界で最も古い聖歌隊席の木製長椅子がある。壁画は欠けたところがある状態で保存されている(ストン、スリマ、ザダル、ペロイ、ドゥブロヴニク)。写本のミニアチュールはダルマチアの写字室(オソル、ザダル、シベニク、スプリト)とザグレブで構成された。ロマネスク芸術の中で金細工の工芸は特別な地位を占めた(十字架、聖遺物箱、移動式祭壇、十字架像)。

トロギールの聖ロヴロ大聖堂(13–16世紀建設)の玄関、名匠ラドヴァンの1240年の作品
ストンに近い聖ミハエル教会のフレスコ画、支配者・寄贈者の人物像の描画、ベネディクト会修道士の絵画スタイル形式で作成
ブラジュ・ユリエヴ=トロギラニン、ダルマチアの後期ゴシックの絵画工房の最も重要な代表者(多連祭壇画、トロギールの洗礼者ヨハネ教会の教会芸術集)
スプリトの聖ドムニウス大聖堂のドア、1214年、その時代のわずかにしか残っていない木製ドアの一つ、アンドリヤ・ブヴィナの作品。
シベニクにある聖ヤコブ大聖堂。三廊式のゴシック教会の始まりで、ユライ・ダルマティナッツにより横方向の身廊と十字平面の上の丸屋根、3つの半円形の後陣と洗礼堂、聖具室が追加された。彫刻作品として初期ルネサンスの特徴を持つ写実的な71の肖像からなる装飾帯がある。2000年にユネスコ世界文化遺産に登録された。
絵画の彩色技術は地元の名匠による、グラゴル文字のフルヴォイェ ・ヴクチッチ=フルヴァティニッチ公爵の典礼書で最高水準に達した(1403年から1404年の間)。

ゴシック(13世紀–15世紀後半)

ゴシック様式は北部クロアチアでは13世紀から見られ、その簡素な特徴の要素は16世紀まで保たれた(レポグラヴァの聖マリヤ教会とザグレブの聖マルコ教会)。ダルマチアでは15世紀後半からヴェネツィアゴシック様式を手本とした教会、市議会堂、修道院、町のロッジア、大邸宅が建てられた。最も重要なゴシック・ルネサンスの融合スタイルの代表者は、建築家で彫刻家のユライ・ダルマティナッツである。ヴェネツィアで学びイタリア(アンコーナ)とダルマチアの町で活躍した。北部の流れに接触し、イストリアの絵画芸術は、パジン、ブトニガ、ベラムのフレスコ画で最高潮に達する(カスタヴのヴィンツェント、15世紀後半)。中世の民族創作の独特な表現として13–16世紀に創られた墓碑のステチュツィがある(ツィスタ・プロヴォ、ネレトヴァ渓谷、コナヴレ)。

イタリアの金細工師ミラノ出身のフラニョは、ザダルの仲間とともに1380年に抱神者シメオンの聖遺物を納めた棺を完成させた(クロアチア-ハンガリー帝国のエリザベータ女王の命を受けて)。
ヴェリキ・タボル城はクロアチアのザゴリェ地方に15–16世紀の間に建てられ、中庭側に開放されている三段の拱廊からなる4つの広いルネサンスの半円の塔がある。
ルツィヤン・ヴラニャニン、ウルビノの軍司令官の中庭(1466年–1472年)。
 
ジュリオ・クローヴィオ、『嘆き』(1552年頃)フィレンツェ、ウフィツィ美術館
 
トロギールの福者イヴァン司教のマウソレウム礼拝堂、初期ルネサンスの人文主義の傑作、1468年から1494年にかけて建立。
ニコラ・ボジダレヴィッチ、『受胎告知』(1513年)、ドゥブロヴニク、ドミニカ修道院コレクション

ルネサンス(15世紀半ば–16世紀)

クロアチアはイタリアのルネサンスの影響をヨーロッパで最初に受けた国である。多くの初期ルネサンス様式を熟成させたイタリアの彫刻家で建築家のニコラ・フィレンティナッツによるトロギール大聖堂のトロギールのイヴァン司教の礼拝堂はアンドリヤ・アレシとの共同作業である。同じく礼拝堂では、イヴァン・ドゥクノヴィッチの作品『福音記者ヨハネと使徒トマス』を見つけることができる。彼はその活動の多くを主にイタリア(ローマのサン・ピエトロ大聖堂の地下礼拝室にある教皇パヴロ2世の肖像が刻み込まれた石棺(1473年))とハンガリーのマーチャーシュ1 世の中庭で行った。貴族のサマーハウスがヨーロッパの類型学からみても特異性のあるスタイルでドゥブロヴニク共和国に建てられていた時期、チャコヴェツからセニまでのクロアチア北西部にはオスマンから防衛するための多くの要塞が建てられた。城塞のヴェリキ・タボル(1505年)とルネサンスの典型的な城郭都市のカルロヴァツ(1579年)が際立つ。

絵画は16世紀初頭のニコラ・ボジダレヴィッチの作品でルネサンスの円熟期に達した。その時期多くのクロアチアの芸術家はイタリアでスキアヴォーニという名(イタリア語で「スラヴ人」を意味している、当時イタリア人がクロアチア人に対して使っていた名称)で活動した。最も有名なのは、画家のユライ・チュリノヴィッチ 、アンドリヤ・メドゥリッチと、すでにミニアチュールのミケランジェロと呼ばれていたジュリオ・クローヴィオ、それから洗練された大理石の胸像の作家である彫刻家のフラニョ・ヴラニャニン、そして建築家のルツィヤン・ヴラニャニンである。

フラニョ・ヴラニャミン、『宮廷の女性胸像』(1472年–1474年)、ニューヨーク、フリックコレクション
シュトロスマイエル大画家ギャラリーで保管されている『イサクの燔祭』(1715年頃)、フェデリコ・ベンコヴィッチ
アントン・レルヒンゲル、『聖母の被昇天』、1772年。トゥルシュキ・ヴルフのエルサレムの聖母マリア教会の天井フレスコ画
チャコヴェツ、都市要塞(16世紀)
クラピナ近くのトゥルシュキ・ヴルフのエルサレムの聖母マリア教会の単廊式巡礼者奉納教会
カルロヴァツ(1579年)、典型的なルネサンスの城郭都市

バロック(17–18世紀)

クロアチアのバロック様式は教会建築(ザグレブの聖カタリーナ、ベレッツの雪の聖母マリア、トゥルシュキ・ヴルフのエルサレムの聖母マリア、リエカの聖ヴィッド、ドゥブロヴニクの聖ブラホ)と公共建築(ザグレブのヴォイコヴィッチ・オルシッチ・ラウフやヴァラジュディンのパタチッチ・パレス、ゴルニャ・ベデコヴチナの城、ダルヴァルの城とヴコヴァルのエルツ城)に多く見られる。バロック建築全体としてはヴァラジュディンとドゥブロヴニクの旧市街、オシエクの堅牢な「トゥヴルジャ」要塞とザグレブの上町が特徴的である。幻想的なフレスコ、漆喰装飾や祭壇と彫像は主に国外の職人(イヴァン・クルスティテリュ・ランゲル、フランチェスコ・ロッバ、フランクとクリシュトフ=アンドレイ・イェロヴシェック、アントン・レルヒンゲル)により作成されたが、いくつかは地元の職人(トゥリポ・ココリャ)の手によるものもある。その一方、例えばフェデリコ・ベンコヴィッチはイタリア、オーストリア、ドイツで活動した。

ザグレブ近くのヴェリカ・ムラカの聖バルバラ木造教会(18世紀)は、地元大工により建てられている。
聖バルバラ教会の内部は民俗画家により豊かな装飾が施されている。
ザグレブのマクシミル公園は1794年に開園したヨーロッパで初めての公共公園のひとつ。その316ヘクタールのエリアは自然と文化のモニュメントとして保護されている。
バロック様式の聖ブラホ教会は1706年に建築され、ドゥブロヴニクの町の神聖な守護聖人に敬意を表している。
ヴラホ・ブコヴァッツ、『グンドゥリッチの夢』(1894年)
ザグレブにあるクロアチア歴史研究所の黄金の間、金メッキを施した漆喰装飾とクロアチアの過去を題材にした絵で飾られている(19/20世紀)。

新古典主義からモダニズムまで(18世紀末– 19世紀末)

新古典主義の時期に、建築を発注したのは主に貴族(ペヤチェヴィッチ家の1801年建設のレットファラにある城と1804年建設のヴィロヴィティツァにある城)、教会当局(ザグレブにあるマクシミル公園、スホポリェにある聖テレサ教会、1807年–1816年)や軍当局である。19世紀前半、市民レベルではより温かみのある控えめなビーダーマイヤー様式に出会う。道具や装飾品は輸入されるか、クロアチアの硝子工房や陶磁器工房、家具工房で生産された。ビーダーマイヤー様式は、絵画芸術には1830年代に主に外国を旅行した画家によりもたらされたが、ヴィエコスラヴ・カラスは独自のクロアチアスタイルを創り出した。19世紀後半の絵画は、歴史的なテーマが主流となり(フェルド・キケレズ、オトン・イヴェコヴィッチ、マト=ツェレスティン・メドヴィッチ)、特に代表されるのは豪華なザグレブの上町の金色の間(今日のクロアチア歴史研究所にある)や、建築においてもまた公共建築や大邸宅において歴史的指向がみられる(ジャコヴォのネオロマネスクの大聖堂(1866年–1882年)、ザグレブの工芸学校と美術工芸博物館(1891年)、オシエク、ヴァラジュディン、リエカ、ザグレブのクロアチア民族劇場、ザグレブ下町の都市化)。19世紀末には観光産業向けの建築がクヴァルネルの沿岸地域(オパティヤのホテルインペリアル、1885年)やダルマチアで急速に発展した。工場建築も盛んになった(リエカの製紙工場)。セセッションはザグレブ、オシエク(欧州通りの大邸宅街)、スプリトの代表的な建築でイヴァン・メシュトロヴィッチの初期の彫刻作品に反映された。

クロアチア歴史研究所の黄金の間にある『ズヴォニミル王の婚約』、ツェレスティン・メドヴィッチ
ベラ・チコッシュ=セシヤ、『ヴァルプルギスの夜』(1898年)
メンツィ・クレメント・ツルンチッチ、『べラヴィスタからの眺め』(1902年)
エマヌエル・ヴィドヴィッチ、『アンゲルス』(1907年)
ヨシップ・ラチッチ、『鏡の前で』(1908年)
リューボ・バービッチ、『赤い旗』(1919年頃)

モダニズム、ポストモダン、現代芸術(20–21世紀)

建築

モダニズムの概念である創造の自由と独自の芸術表現は建築においてヴィクトル・コヴァチッチによって提唱され、その機能主義は二度の世界大戦の間、ザグレブの建築流派を主導したドラーゴ・イブレルやスティエパン・プラニッチによって支持された。この中にはユライ・デンズレル、ムラデン・カウズラリッチ、ユライ・ナイドハルド、ヨシップ・ピッチュマン、イヴァン・ゼムリャック(ヨルダーノヴッツの学校、1935年)等が含まれていた。スプリトでは同時に前衛的な概念がズラティボル・ルクシッチ、ヘレン・バルダサル、エミル・ツィツィリアーニ、ヨシップ・コドゥル(ホテルアンバサードル、1937年)によって提唱された。

ヴィエコスラヴ・バストゥルによるザグレブのセセッション様式の住居ビル(1906年)
ザグレブにあるクロアチア国立文書館(旧国立・大学図書館)、ルドルフ・ルビンスキ設計のセセッション建築の代表例(1910年–1913年)
ヴィクトル・アクスマンによるセセッション様式のオシエクのウラニア映画館(1912年)
ヴィクトル・コヴァチッチによるザグレブ証券取引所(1923年開始、1927年同僚のフゴ・エルリッヒにより完成)
ザグレブのナプレトゥコヴァ組合ビル(1936年)、スティエパン・プラニッチ
ザグレブの木の摩天楼(1958年)、ドラーゴ・イブレル

戦後の力強いクロアチアの建築はいわゆる国際様式を取り込んだ。より大きな都市では、大規模な地区開発が開始され(新ザグレブ、スプリトⅡとⅢ)、住宅建築(ザグレブのヴコヴァルスカ通りにあるドラーゴ・ガーリッチによるビルやラギニナ通りのイーヴォ・ヴィティッチによるビル)に加えいくつかの代表的な公共建築が多くの建築家によって建てられた。ヴラディミル・トゥリナ(マクシミルのスタジアム、1946年–1962年)、カジミル・オストロゴヴィッチ(ザグレブ市庁舎、1956年–1958年)、ヴィエンツェスラヴ・リヒテル(ブリュッセル1958年とミラノ1964年の展覧会におけるユーゴスラビアパビリオン)、ラドヴァン・ニクシッチとニノスラヴ・クチャン(ベルナルド・ベルナルディの美しいインテリアがある今日のザグレブ公開大学、1961年)、スラヴコ・イェリネック(ザグレプチャンカというビジネスタワー、1976年)。1960年代半ばには、観光産業の成長に伴い、早く建設でき完成度が高く環境と融合した観光関連の建物が伸びた。特にボリス・マガッシュのシベニクの近くにあるソラリスホテルの複合施設(1968年)に見ることができる。彼は「ポリュドの美人」と呼ばれるスプリトのハイドゥク・サッカー・クラブのスタジアム(1979年)も設計した。

ヴィエンツェスラヴ・リヒテルのブリュッセルEXPOのユーゴスラビア・パビリオン(1958年)
ザグレブにあるマリヤン・ハベルレ、ミンカ・ユルコヴィッチ、タニャ・ズドヴォルジャックによるヴァトロスラヴ・リシンスキ・コンサートホール(1960年–1973年)
ヴコヴァル近くのゴラン・ラコによるヴチェドル文化博物館
ヨシップ・サイセル、『紙、色、絵画』(1922年)
エド・ムルティッチ、『ハイウェイ』(1952年)
ミリェンコ・スタンチッチ、『画家カラス』(1953年)

ポストモダニズムの風潮はニコラ・フィリポヴィッチや、ザグレブの火葬場と新国立・大学図書館を設計したズヴォニミル・クルズナリッチ、ダヴォル・マンツェ、マリヤン・フルジッチとのチームの作品に認められる。その図書館は、ザグレブ新空港(2017年、共同デザイナーのブランコ・キンツル)の設計者ヴェリミル・ナイドハルドとの共同作業であった。貴重な作品がスプリトのディンコ・コヴァチッチとザダルのニコラ・バシッチにより実現され、後者は設置されている環境に特別な注意をはらい、建築的かつ彫刻的に結び付いた作品に仕上げた(「海のオルガン」、2005年)。

新しい時代の建築としては博物館建築が興味深い(イゴル・フラニッチ、ザグレブの近代美術館、2009年、ゴラン・ラコ、ヴコヴァルの近くにあるヴチェドル文化博物館、2015年)。世紀の変わり目には建築表現の多様性を維持し続ける世代が成長した(ミラン・ショステリッチ、ザグレブの音楽アカデミー、2014年)。イディス・トゥラトとサシャ・ランディッチのチームと3LHD(サシャ・ベゴヴィッチ、タニャ・グロズダニッチ=ベゴヴィッチ、マルコ・ダブロヴィッチ、シルヴィイェ・ノヴァック)やSTUDIO UP(トマ・プレイッチとレア・ペリヴァン)のようなデザイナーの共同建築スタジオは特に観光やスポーツの建築分野で成功を収め、すでに国際的に認められている建築家のヴィンコ・ペネジッチ、クレシミル・ロギナ、フルヴォイェ・ニーリッチとともに国外で注目されている。

リューボ・イヴァンチッチ、『イーゼルのある自画像』(1958年)
マリーノ・タルタリア、『人物像』(1963年)
イーヴォ・ガッティン、 『裂かれた表面』(1961年)
ユーリイェ・クニフェル、『曲がりくねった隅』(1961年)、ザグレブ現代美術館
ヴラド・クリストゥル、『変形Ⅰ』(1962年)
ミロスラヴ・シュテイ、『物体Ⅰ』(1968年)

絵画

1893年、パリで学んだヴラホ・ブコヴァッツが、絵画の重要な価値観をザグレブに持ち込むと、そのオープンな彩色法は何人かの若い画家に受け入れられ(ザグレブ色彩学校)、彼らはクロアチアの近代絵画のグループを作った。その中で、オトン・イヴェコヴィッチは歴史的なテーマと印象派のアプローチを関連付け、ロベルト・アウエルとベラ・チコッシュ=セシヤはセセションに触発された。また、メンツィ・クレメント・ツルンチッチは近代クロアチアのグラフィックの基礎をつくり、スプリトのエマヌエル・ヴィドヴィッチは最初にイタリアの分割主義から表現主義に転向した。チコッシュ= セシヤとツルンチッチは後の1921年にアカデミー(今日のザグレブの芸術アカデミー)に発展する私立学校を1903年に設立した。この純粋絵画への希求とは反対に、メドゥリッチのグループ(1908年スプリトに発足)と彫刻家のイヴァン・メシュトロヴィッチの周辺に集まったミルコ・ラチュキとトミスラヴ・クリズマンのようなセセッション芸術にインスパイアされた芸術家は、国民的な造形的表現のモティーフを民間伝承や英雄神話の中に追い求めた。

クロアチアの建築家や視覚芸術家はヴェネツィアビエンナーレやカッセルのドクメンタ等の国際的に重要なイベントに定期的に参加している。中でもヴラホ・ブコヴァッツは、既に1897年にヴェネツィアビエンナーレに初めて出展している。

ヨシップ・ラチッチ、ミロスラヴ・クラリェヴィッチ、ヴラディミル・ベツィッチ、オスカー・ヘルマン等のいわゆるミュンヘン派のグループはクロアチアの絵画にそこから学んだ新風をもたらし、その進歩的な脈絡(セザンヌ主義から表現主義と新現実主義を通して新古典主義へ)は「春のサロン」(1916年–1928年) の展覧会の出展者によって受け継がれた。当初は、主にそのサロンの創始者のリューボ・バービッチとズラトゥコ・シュレンティッチであったが、後にキュビズムやポストキュビズムの傾向があるプラハで学んだ「4人組」のメンバー(ヴィルコ・ゲツァン、ミリヴォイ・ウゼラッツ、特にマリーノ・タルタリアとミラン・シュタイネル)が出展した。建築家で画家のヨシップ・サイセル(雅号ヨ・クレック)は1922年最初の抽象画を描いた。アントゥン・モティカは色彩を極限まで明るくする表現で、イグニャット・ヨブは色彩豊かな抽象的な表現主義を推し進めた。左派寄りのグループ「ゼムリャ」(1929年–1935年、レオ・ユネック、マリヤン・デトニ、ヴィリム・スヴェチュニャック)は社会的なテーマを扱い、主な観念論者はナイーブアート(特に20世紀半ばその活動が国際的にも認められたフレビネ派)を主導したクルスト・ヘゲドゥシッチであり、さらに重要なのは画家イヴァン・ゲネラリッチ、イヴァン・ラブジン、イヴァン・ラツコヴィッチ=クロアタであった。

ザグレブ現代美術館でのEXAT 51展覧会
イヴァン・ゲネラリッチ、『レッドブル』(1972年)
フェルディナンド・クルメル、『反復の構造 I 72』(1972年)
ディミトリエ・バシチェヴィッチ=マンゲロス、『第二文明の主要プロジェクト』(1977年/1978年)
サニャ・イヴェコヴィッチ、『前–後』(1976年)
トミスラヴ・ゴトヴァッツ、『ザグレブ、愛してる!』(1981年)

1940年代後半にはすでに戦後の社会主義リアリズムから脱却し、ヨーロッパやアメリカの前衛芸術とのつながりが再び確立された(叙情的抽象、アンフォルメルと抽象表現主義)。最初はエド・ムルティッチやフェルディナンド・クルメルらが追い求め、イーヴォ・ガッティン、ジューロ・セデルやマリヤン・イェヴショヴァルはそれを広げ先鋭化させた。特徴のある抽象表現はアルベルト・キネルト、オルダン・ペトレヴスキ、オトン・グリハ、後にエウゲン・ココット他により発展させられた。

ポストシュールレアリスムの形象絵画、幻想的あるいは形而上学的な絵画の一派には、ミリェンコ・スタンチッチ、ヴァシリイェ=ヨシップ・ヨルダン、ニヴェス・カヴリッチ=クルトヴィッチ、スラヴコ・コパッチ、ヨシップ・ヴァニシュタであり、リューボ・イヴァンチッチは表現主義の形象とアンフォメル芸術を見事に結びつけた。1970年代ビアフラ・グループ(ズラトゥコ・カウズラリッチ=アタッチュ)は形態付与に積極的に関与した。ズラトゥコ・ケセルは表現主義に傾倒し、ヤドランカ・ファトゥルはスーパーリアリズムを追った。その間新しく詩学的絵画ももたらされ(ニナ・イヴァンチッチ、ズヴィエズダナ・フィオ、ジェリコ・キプケ)、20世紀末のポストモダンの多様性にはズラタン・ヴルクリャン、ゾルタン・ノヴァック等が貢献した。今日のクロアチアの画家の造形的な表現は、コンセプチュアルなアプローチ(ロヴロ・アルトゥコヴィッチ)から、表現主義やポップアートのインスピレーション(イヴィツァ・マルチッチ、ロベルト・シムラック、トミスラヴ・ブンタック)まで、しばしば現代の現実とその文化的暗黙知を反映している。

ムラデン・スティリノヴィッチ、『死者の搾取』(1984年–1990年)
エディタ・シュベルト、『台形』(1985年)
ダリボル・マルティニス、『温かい机』(1987年)
ヴェスナ・ポカス、『無題の作品』(2007年)
レナタ・ポリャック、『出発』(2016年)
イヴァン・メシュトロヴィッチ、『黙想』(1924年)

1950年代初頭、EXAT 51のグループはバウハウスと構成主義の理念を取り入れ活動を開始した。幾何学的な抽象芸術に向け、その絵画の代表者であるヴラード・クリストゥルとイヴァン・ピツェリュの作品において展開された。ユーリイェ・クニフェルはその近くで、彼の唯一の先入観―蛇行―に忠実に従った。EXAT 51の経験を経て、国際的芸術の新しい風潮にあわせて活動し、アンソロジーの展示会で際立ったのは、ミロスラヴ・シュテイで、彼は映像表現のオプ・アート(アンテ・クドゥズのように)を進展させ、絵画、グラフィック、彫刻の間の境界で遊び、それは他の芸術家にアンビエントアートに目を向けさせ(リェルカ・シベニク、エディタ・シュベルト)、根本的かつ分析的な枠組みのプロセスを通して絵画の媒質を探求するように刺激を与えた(ボリス・デムル、ドゥブラヴカ・ラコツィ、ゴラン・ペテルツォル)。

原概念のグループであるゴルゴーナに属するメンバー(マリヤン・イェヴショヴァル、ユーリイェ・クニフェル、ジューロ・セデル、ヨシップ・ヴァニシュタ、イヴァン・コジャリッチ、ディミトリエ・バシチェヴィッチ=マンゲロス)と、パフォーマンスと異なる媒体、特に映画への探求心を持ったトミスラヴ・ゴトヴァツは1960年代初頭、慣習にとらわれない視覚芸術を展開し、新しい芸術の実践の枠組みの中で、伝統的ではない芸術的手法や材料、そして新しい媒体に挑戦したコンセプチュアルアートの数世代に道を開いた(ゴラン・トゥルブリャーク、サニャ・イヴェコヴィッチ、ダリボル・マルティニス、ヴラディミル・ドディグ・トライアングル; 1970年代 の「6人の芸術家グループ」、ジェリコ・イェルマン、ボリス・デムル、ムラデン・スティリノヴィッチ、スヴェン・スティリノヴィッチ、ヴラード・マルテック、フェドル・ヴチェミロヴィッチ)。今日の現代美術は、実験とパフォーマンス(スラヴェン・トリュ、シニシャ・ラブロヴィッチ、イゴル・グルビッチ)、アンビエントアート(ミリャナ・ヴォドピヤ、ヴィクトル・ポポヴィッチ、イヴァナ・フランケ)、トランスメディア表現(ダヴィッド・マリュコヴィッチ、ダミル・オチコ、ズラトゥコ・コプリャル)を成長させ続けており、度々社会的な関与が強調されている(アンドレア・クルンチッチ、レナタ・ポリャック)。

アントゥン・アウグスティンチッチ、ニューヨークの『平和記念碑』(1954年)
アレクサンダル・スルネッツ、『ルミノ– キネティック造形』(1969年)、ザグレブの現代美術館
ヴォイン・バキッチ、ザグレブのイヴァン・ゴラン・コヴァチッチの記念碑(1964年)
イヴァン・コジャリッチ、『接地された太陽』、ザグレブ(1971年)
ドゥシャン・ジャモニャ、『彫刻アルプⅡ』(1974年)、ヴルサルの彫刻公園
シニシャ・マイクス、『胚』、ザグレブの芸術パビリオン(2004年)

彫刻

イヴァン・レンディッチの写実的な彫刻は、クロアチアの現代彫刻発展の先駆けであった。それはロベルト・フランゲッシュ=ミハノヴィッチ、ルドルフ・ヴァルデッツ達や、動物のポートレートによるブラニスラヴ・デシュコヴィッチの印象派的なインスピレーション作品等によって維持された。偉大な彫刻家イヴァン・メシュトロヴィッチは多くの大理石、ブロンズや木の彫刻、幅広い様式(セセッションから、ロダニズム、古典、ゴシック、ルネサンスを通し、ブールデルとマイヨールの形態コンセプトまで)の特徴をもつ建築造形的記念碑を手掛け、フラーノ・クルシニッチは古典や地中海の伝統からインスピレーションを得て様々な世代の芸術家のモデルとなった。同時代のアントゥン・アウグスティンチッチとヴァニャ・ラダウッシュは、心理的な動機付けを持ったリアリズムと社会的志向を希求した彫刻家であった。

1950年以降の新しい精神の担い手はコスタ・アンゲリ・ラドヴァニと抽象的な彫刻表現のヴォイン・バキッチ、ドゥシャン・ジャモニャと特異な多作の作家イヴァン・コジャリッチである。国際的な新しい潮流の枠組みの中で構成主義の概念に刺激を受けたのはかつてのEXAT 51のメンバーで、1960年代に最初のルミノ=キネティック作品(アレクサンダル・スルネッツ)や、いわゆるシステム造形(ヴィエンツェスラヴ・リヒテル)を創り出した。クセニヤ・カントツィ、ブランコ・ルジッチ、シーメ・ヴラスは抽象芸術と造形の境界線で、主に木材を用い創作した。ポップアートの要素的な傾向は、ヴァスコ・リポヴァツ、ズヴォニミル・ロンチャリッチ、マリヤ・ウイェヴィッチ=ガレトヴィッチの作品に見られる。1970年代初頭、ラダウッシュとヴァレリイェ・ ミキエリの作品を参考に、ビアフラ・グループのメンバー(スティエパン・グラチャン、ラトゥコ・ペトリッチ、ミーロ・ヴーツォ)は急進的で、表現力豊かで社会的な彫刻を創り出した。次の世代はポストモダンの流れと伝統を拠り所として、新しい表現や自由な抽象形態と滑稽な連想を模索した(ペルシュコ・ボグダニッチ、ダリボル・ストシッチ、マトゥコ・ミイッチ)。現代のクロアチアの彫刻家は、多様な媒体と素材(シニシャ・マイクス)を使用し、その作品、インスタレーション、雰囲気を通して、現代の生活や社会について触れることが多い(イネス・クラシッチ、クリスティアン・コジュル、イヴァン・フィヨリッチ、アレム・コルクット)。